雲仙火山の活動が始まり火山砕裳屑物が口之津層群の上に堆積した。
雲仙火山の活動が始まり火山砕裳屑物が口之津層群の上に堆積した。
夜半、普賢岳鳴動。普賢祠前の径10mのくぼみのなかに径6,7mの噴火口がふたつ形成。そこから泥土や小石噴出。噴煙が空高く舞い上がる
穴迫から噴煙上がり、夜は火映。溶岩流発生(新焼溶岩流)
近隣から多くの人々が溶岩流見物に集まる。噴火・溶岩流の景況を見物しながら遊楽。女性が霊地の高山に登ると鳴動が強くなるとして「婦女登山禁止」の高札。「山中毒気あり」の高札を掲げ、入林禁止の措置
穴迫から約200m高所の飯洞岩(蜂の窪)から噴火、溶岩流が流下し新焼溶岩流と合流
島原藩主・松平忠恕(ただひろ)、家族を城内に置いて守山村(現吾妻町)の庄屋・中村佐左衛門方に避難
馬廻り・川井治太夫(じだいう)「領主が守城を捨てて避難するとは、武門の恥とするところ」と諌めるが聞き入れられず
島原藩、雲仙岳の一乗院に雲仙岳沈静の祈祷を命じる
穴迫谷の溶岩流末端の下に仮屋を設け、真言宗の僧侶14人が17日間真言秘密の祈祷。城下の寺社でも祈願
午後4時ころ、島原城下町に大地震発生(三月朔地震)。普賢岳や眉山から岩塊崩落。島原城下町に多くの地割れ発生、城の石垣や石橋が崩れる
「三月朔日、終夜強弱300余度の地震あり、2日3日に至るも尚100度以上にして鳴動強し、戸障子の外るるもの朔日6度、2日目は4度なり、かかる景況なりければ屋内に居るものなく皆庭園に出て筵苔(むしろこも)あるいは渋紙等を張り、僅かに雨露を凌ぎけり、頃は弥生の初めにしてモモの節句の基準として折角飾りし雛棚も地震のために揺り崩され棚より落ちる人形を顧るの暇もなく、只地震に心を労するのみ」――寛政4年島原地変記
藩庁は夜中に、溶岩流や津波その他に対する防災上の注意「三月令」を布告
藩主家の子弟、守山村庄屋方、山田村庄屋・林田信太郎方などに移居。城下町の住民も避難開始
夜半、楠平で長さ約330m、横約360mの地滑り
「三月八日、各村より報告したる破壊家屋死人左の如し。潰家23軒、半潰家34軒、潰土蔵3棟、半潰土蔵1棟、馬小屋等半潰とも288棟、圧死2人、斃牛1頭」
地震静かになる
京阪地方では「三月朔(さく)の地震」の流言飛語がとびかう。「山が破裂して、島原城下町には人間が一人もいなくなった」諸国の見舞客が島原に来訪。佐賀藩主・鍋島治茂は半島北部の神代(こうじろ)港に数十隻の船舶を寄港、御番頭、物頭らを派遣して災害に備える島原から神代への避難人数、3月15日で336人に達する
午後8時すぎ強震2回、眉山大地滑り、津波発生3回。流死15000人。島原城下町湧水。眉山地滑り跡から湯気立上る
「前山(眉山)はあらぬ姿に裂け、昨日まで建て続きたる家並は絶えて、目なれぬ山ばかりまのあたりにできぬ」――侯梅亭文章寛政大変記
肥後国宇土郡、飽田郡、玉名郡などの有明海沿岸地帯に高さ20mを超える津波襲来、流死4653人。天草郡の海岸も津波が襲った。大矢野島には死体の漂着多く、村民がこぞって埋葬した。
「前山の溶体を見るに、南平半分は飛て、海中に幾千となく小山を築、市中変じて山と成り川と変じ、以前の様子はいささかもなく、さてありし以前を思ひ見るに、僅か多葉粉(たばこ)一吸の間に、かくなりし事ども、只夢の如くにして、心の疑い覚やらず_」――西肥島原大変聞録
藩主忠恕、諸役所ならびに家中、さらにその家族の避去を書状で命じる
諸役所は、三会(みえ)村景花園(けいかえん)に移した
幕府の譴責を恐れた藩庁は、かつて幕府へ提出した家中退避の上告書を一般民衆に示し、幕府の許可を得た措置(藩主の避難)であったことを強調
島原城内の諸役所、移動を開始。馬廻り・治太夫、忠恕に城に戻るよう書状で願うが聞き入れられず、桜門の当直所において割腹自殺
千々石湾(橘湾)に臨む北串山村で地下水が減水
藩主・松平忠恕、島原の被災状況を視察、惨状に慨嘆。翌日急病を発し重態となる
正午すぎ普賢岳の噴火活発となり、大小の噴石を飛ばし、千本木付近まで降灰
藩庁、本光寺に命じて片町で施餓鬼を挙行
晴雲寺の住職覚昭、溺死者供養のための施餓鬼をはじめる。藩庁でも5月6月に島原条南の万町(よろずまち)に仮屋を設け、初めて流死者の霊を弔う
普賢岳の鳴動強く、噴火口が南側に広がる。飯洞岩や穴迫の噴煙強し。眉山の崩落が続く